インタラクティブ・サイエンス・コラム

生命の進化という観点から考えたら、人類のような大型の動物が56億頭も存在するというのは例外中の例外といえる。例えば、1万年という短い時間内の増え方が異常だし、個体数が56億という数も尋常ではない。その結果、地球には様々な影響が生じている。人類以外の多くの種が絶滅の危機に瀕しているのもその例である。過去の地球において多くの種が一度に絶滅したことは何度もあったが、それは気候の変動などのためであり、特定の種の異常な繁栄により他の種が大絶滅したことはない。つまり、我々は地球環境を狂わせるもの、という見方ができる。「環境破壊者としての人類」というわけだ。
 だが、これは現在の状況だけを見た場合の話だ。長い進化の歴史や、それよりはずっと短いとはいえ人間の一生に比べたら十分長い人類史の観点から見たらどうなるだろうか?例えば、二酸化炭素の放出による温暖化が環境破壊の最たるものとして問題になっているが、過去数万年間の地球の気候変動を見る限りでは、現在の地球は例外的に温暖であり、いつかもっと寒くなることが予想される。そうなれば、高緯度地方は氷に覆われ農耕ができなくなり、食糧難の為に住めなくなった人々が大挙して南下し、食糧資源の奪いあいによる戦争、大量の難民の発生、衛生状態の悪化、ウイルス性の伝染病の発生、そして全人口の3割が死ぬほどの大惨事が訪れてくる 可能性がある。そして、最近の異常気象はこの「例外的な温暖期」の終の前触れかもしれない。もしそうなら、むしろ二酸化炭素を大量に放出して温室効果を高めておいたほうが人類の生存に有利という可能性だってあるのだ。
 ここで話しが変わる。科学の発展により、人類が 死ななくなったことも問題だ。このままで行けば、世界の総人口は早晩、100億を超えるだろう。発展途上国において、人口は爆発的に増大している。それに拍車をかけているのが文明国のヒューマニズムだ。難民対策などにより飢餓に瀕した人々を助けたりしているからだ。人道的にはこれは正しい。だが、こうやって助けた人々が全て生き残り、人口が爆発的に増加した暁に「温暖な気候」が終を告げて、地球の温度が下がり戦争や食料不足が何倍にもひどくなったら、今、助けられた人々は本当に幸せなのだろうか?
 このような悲惨な未来を避けるために、人類は何をすべきなのだろうか?この様な終末思想が語られるとき、あるいは実際に気候の悪化に遭遇したとき、人類は決まって宗教に精神の安定を求めてきた。それは、あるときは死の恐怖から逃れるためであり、またあるときは自己のみが選ばれた民であるという選民思想により他者を排除することを正当化するためであった。だが、過去の歴史を見る限り、この様なやり方は何一つ解決してこなかった。我々が今なすべきことは宗教に走ることではなく、過去の地球史から学んで気たるべき地球の気候変動の中でも生き残るためにはどうすべきか考えることだ。人類は選ばれた存在ではないし、進化の到達点でもない。物質の一存在形態にすぎない、生命のこれまた一種類に過ぎない。進化していく生命史の中で不必要になった時に静かに次世代にバトンタッチすべきなのだろう。そのような客観的で謙虚な科学的な立場だけが人類を救う道筋を見い出せる可能性を内包している。
 山羊を小さな島の中に放せば、島の緑を最後の葉の一枚まで食べ尽くして死に絶えるという。人類は、今、地球と言う小さな島を食べ尽くさんとしている。人類といえどもいずれは恐竜のように 滅亡する運命だろう。だが、人類だけに与えられた「知性」という特別な性質が人類を滅亡の運命から救ってくれるかもしれない。そのためにも、過去の地球の歴史に学ぶべきなのである。
 さて、丸山教授インタビュー、どうだっただろうか。今回のカガクの話は楽しい、というよりちょっとドキッとする話だったが、こういう面も科学の一面ではある。いずれによ、見方をちょっと変えるだけで今までとは全く違う現実が見えてくる。それがカガクの醍醐味なのだ。