機械、すなわち計算機に、人間の代わり、つまり、人間の知性/思考の機能を代替させようという試みは「人工知能」の研究として知られている。人工知能の研究者たちが最初に試みたのは人間の「知能」という機能を定義し、それを計算機が実現できるようにプログラムしようというやり方であった。それはちょうど、足し算や引き算のように「知能」を定義できるという考え方に基づいていた。その成果が、数値計算を目的としないプログラミング言語(たとえばLISPのような)であるが、結局、この試みはうまく行かなかった。知能は足し算や引き算のように定義できるようなシロモノでは無いらしいと解ったのだ。その代わりに現在試みられていることは手や目を備えたロボットに原始的なプログラムとCPUを与えて乳児を育てるようにして知能を自発的に発生させようという試みである(ワイアード、vol. 1.03,「ロボベイビー:マシンの「知能」を育てる」)。そこに見られるのは知能は人間によって定義可能なものではなく、自発的に自然と現われるものでしかない、という謙虚な考え方である。つまり、知能とは人間の大脳の中に存在するプログラムされたコードである、と言うよりは大脳という複雑なシステムと現実の環境との相互作用そのものが「知能」であるという考え方だ。
この様な考え方はまだ主流の考え方ではないが、似たような現象は昔から知られている。生まれつき全盲であるが、成人した後、手術により視力が回復するタイプの盲人があるらしい。この場合、視力が回復しても目が見えない。何だか、言ってることが矛盾しているようだが、外界から信号としての光を目はとらえて大脳に送ることが出来るようになったのだが、それを大脳が解釈できないのである。冷静に考えてみれば我々の目がとらえることのできるデータは3次元空間の平面への射影である2次元の映像である。従って、この2次元の映像を現実の3次元空間の情報として再構成するには何らかの手続きが必要である。成長期にその機会が奪われば、信号は入ってきても解釈できない、ということになる。この様な症状は日常生活を繰り返すうちに回復するらしい。つまり、自分が見ているものに手を触れてみて、目から入ってくる信号と現実の3次元世界との対応を経験して始めて、3次元を視覚的に知覚できるようになるわけだ。視覚ひとつとってもそうなのだから、「知能」自体も現実との接触無しには生まれ得ないと言うのはあながち嘘では無いかも知れない。
なお、人工知能研究の歴史についてはここに簡単な年表がある(またも英語ですが。)。 アシモフの著作もちゃんと引用されている。