計算機は人類の末裔か?


 末裔という言葉は、なんとなく哀愁の響がある。それは、「かつては栄えていたが、今はそれほどではない」という含みがあるからだろう。だから、「人類は猿の末裔」とは言わない。どう考えたって、猿より人類の方が栄えているからだ。しかし、人類だって永遠ではないからいつかは滅びる。そのあと、何が地球の支配者となるのだろうか?勿論、ゴキブリと言う可能性もあるができるなら多少なりとも人類の後継者の様なものがいいと願うのが人情である。で、計算機なんかどうだろうか?というのが今回のテーマ。


 どのような条件を満たせば、計算機が人類の後継者となったと言えるだろうか?人類が滅亡したあと、計算機が残っても、だだ、壊れずに動いているだけではなんとなく、人類のあとを継いだという感じはしないだろう。それでは生物らしさが欠けているからだ。生物らしさとは何か?生存の飽くなき追及。つまり、自己保存本能だ。計算機が自己保存本能を持ち、より良く、あるいはより長く存在し続けるために自己の改良を始めた時、計算機は人類の後継者と見ることができるようになるだろう。すなわち、進化する機械というわけだ。

じゃあ、人間が死滅した後も人間が作った計算機が環境の激変に耐えながらしぶとく生き残ったとしよう。それだけで十分だろうか?何かが足らない。それは、子孫を作ることだ。生物の進化の究極の目的はできうるかぎり多くの子孫を残すことである。だから、真の生物となるためには計算機は子孫を残す様にもならなくてはならない。この様に書くと「計算機が子孫を残すなんて」と思うかも知れないが、そうでもない。現在の生物学の正当的な価値観からすると、生物とは遺伝子の乗り物にすぎない、ということになっているから、多くの子孫を残すと言うことは、結局、遺伝子の再生産/ 進化を効率良くやるということである。だが、 遺伝子の再生産/進化さえできればいいなら、これはむしろ計算機にとっては好都合である。なにしろ、遺伝子の本質は、塩基がどのような順番で並んでいるのかという「情報」に過ぎない。情報とはまさに、計算機が扱うもの、あるいは扱いうる唯一のものである。となれば、遺伝子が乗り物としての生物を捨て去って計算機に乗り換えるということはあながちありえないことでも無いかもしれない。

 それでは、生存可能性が高くなるように、あるいは、子孫数を最大にするように自己を進化させさえすればどんなやり方でも人類の末裔という感じがするだろうか?やっぱり、そこはそれ、人類を人類たらしめたもの、人類をもって万物の霊長であると自認させしめた特徴を進化させて行かないと人類の後継者という感じはしない。その様な特徴とは、いうまでもなく「知性/思考」である。計算機に人類が持っているとされているこの知性を持たせるのは人類の究極の目標の一つだが、今のところその前途はようとして知れない。そもそも、「知能」と言うものが定義可能なものかどうかさえ怪しいのかも知れない。

僕の個人的な感想からすると、「知能」というのは結局、人間の大脳と言う器官の機能としてしか定義できないものではないかと思う。だから、知能の定義を知りたければ人間の 大脳の研究をすればいいわけだ。それが「知能」の研究の近道かも知れない。最近はやりの ニューラルネットというのはもともと、大脳の機能を真似た計算機を設計して、人工知能を作ろうという試みであった。

こうやって考えてくると、結局、「人類の末裔としての計算機」は人間そっくりになってしまうかも知れない。人間と同じ遺伝子を持ち、「子孫」を作りだし、人間の頭脳を模した人工知能をもつ。たとえ、人間と同じような手や足や顔や目を持っていなくても、それは限りなく人間に近いだろう。いや、むしろそれは人間以上のものかも知れない。かつて、SF作家 アイザック・アシモフが「ロボット工学三原則」に基づいた一連の作品の中で看破したように。