クローン技術もかなり進んで来て、体細胞の核を近縁種の卵細胞にいれて成体を発生させるとかもできるらしい(ここ)。人間とチンパンジーなんかは、近縁種だから、チンパンジーの卵細胞に人間の体細胞の核を入れて人間の子どもを生ませたりできるのかもしれない。これは人間なんだろうか?
なんだか良く解らないが、DNAさえ同じなら種は同じだ、というならば、確かにDNAだけとっておけば種は殺してもいいかもしれない。それじゃあ、環境が保存されてないよ、という意見もあるみたいだけど、そうなると、あっちこっちの動物園がやっている種の保存プロジェクトも意味無くなっちゃうよね。だから、近縁種でクローンが作れるというのは実はとっても重い話だ。
考えてもみよう。種なんてのは必ず近縁種があるのだ。Aという種がBという近縁種でクローン作れるからAと言う種を消して、Bという種がCと言う近縁種でクローン作れるからBと言う種を消して....とどんどんやっていってみたら、最後は何にも残らなくなってしまった、ってことはありえないんだろうか?もちろん、クローン技術だけ進歩しても、他の生物がいないと現状では人間は生きて行けないからダメだけど、もし、生きて行けるくらい技術が上がったら、DNAでいつでもクローンが作れる種を維持するために環境を保全する、ということに倫理的な意味はあるんだろうか?
そこまで行かなくても、害虫なんかは根絶してDNAだけとっておけばいいや、とかならないだろうか?そうなると「必要な自然」と「不要な自然」の区別が出て来て「不要な自然」は完全に消し去られてしまうのではないか。そんなことを妄想するのは狂っている?
2001年1月14日
すっかりさぼりぐセがついてしまって、3日も空いてしまった。
ネイチャーは超有名な科学雑誌。ここへ行くと毎号の概要が日本語で読めたりして便利だ。1月11日号には気候の安定性とかいう研究が紹介されている。要するに過去の気候をコンピュータシミュレーションしたら、思っていたのとかなり違った、という話しである。こんなの当然だと僕は思う。いま、やられている温暖化のシミュレーションなど僕は信じていない。気候は非常に複雑なシステムだから百歩ゆずってモデルが正しいとしても、実際にどんな気候になるかは微妙なパラメータや使われた観測値で変わってしまうはずである。実際、この紹介よると全く違う気候(現実の気候と氷河期の気候)が共にありうる、という結果が出たそうである。これはまあ、当然だと僕なんかは思う。
現実問題として二酸化炭素が増えたら気温が上がるなどという単純なことが起きる可能性はまずないと思う。起きることは予想不可能だ。何も起きないかもしれないし、もっとひどいことが起きるかもしれない。いずれにせよ、モデル計算で将来を予想できるわけなど殆ど無い。温暖化の議論に使えるような精度はないと思う。
ただ、研究としてはおもしろい。こころひかれる物がある。だから、研究する人がいて、かつ、利用する人がいる。でも、それでいいんだろうか?大いに問題だと思う。
2001年1月10日
窓から外を見ると近くのオフィスビルに明りがともっているのが見える。もう、遅いのにご苦労なことだ。人間は一体、一日に何時間くらいなら働けるのだろうか。週に100時間働いているという人も知っているが、そうなると、土日無く働いても毎日15時間くらい働いていることになる。寝る時間が6時間としてもあと3時間しか残らない。食事するのがせきのやまだろう。こういう人は本当に超人的だ。
大体において、人間の能力には限界はあるのか。本を読むスピードがすごく速い人もいる。特に英語の原書なんかをすらすら読める人は本当に尊敬してしまう。ものすごく文章を書くのが早い人もいるし、記憶力がすばらしい人も、研究に専念してたゆみなく頑張れる人もいる。本当に人間の能力はすごいと思う。
結局のところ、人間が生物学的に覇者となったのはこの様々な能力を発揮できる潜在力のおかげだと思う。他の生物で能力にこれほどまでに個体差がある生物はいないのではなかろうか。それぞれに出来ることは異なっている個体がネットワークを組んでお互いに協力しあうと全体的な能力は信じがたいまでにたかくなろのだろう。その結果がこの惑星さえも変えてしまいかねない脅威的なパワーになった。
人間は社会的な動物であるということはよく強調されるけれど、個々の人間の潜在力の多様さも見逃せないと思う。そして、そういう能力はきっとミームとして人から人へと伝わって行くのだ思う。この仕組みも進化が作り上げたのだろうか。本当にすごい。
2001年1月8日
人はなぜ、闇を恐れるのか。子供の頃、闇が恐かった。勿論、本当の意味で感情を覚えているわけはないだろう。ただ、記憶として闇が恐かった。闇の中には何がいるのか分からないから恐ろしかった。が、今ではそういう恐怖はずいぶんと減ってしまった。
ひとつには、自分が状況をコントロールしているという安心感があるだろう。手を伸ばせば明かりがつく。つかなくても直せる。直せなくてもろうそくがある、などなど。闇はコントロール可能なものになってしまった。子供の頃はそうじゃなかった。もし、スイッチを入れても明かりがつかなければ、ブレーカーを入れたり、電球を換えたりしなくてはならないが子供にはそんなこと出来ない。
もう一つは闇の中にはたいした物がいないと分かってしまったからだろう。世の中の出来事には全体的な整合性というものがある。いろいろ知識が増えてしまうと、整合性の観点から家の中の暗闇にモンスターが隠れている確率は著しく低いことを学んでしまう。勿論、ゼロではない。ゼロではないが、それよりもっと確率が高いこと(地震が来る、交通事故にあって死亡、強盗に入られる、などなど)を無視して生きていると、もっと確率が低いことを怖れる能力は失われてしまう。
思えば、こどものころの方が死が恐かった。自分が死んでも世界は依然として存在しつづけるということがどうしても理解できなかった。自分を見ている自分を考えると、自分が死んでしまうと自分を見ている自分もいなくなるということが非常に不合理に思えてしまう。いまは、そんな感覚も無くなった。自分が死んでも世の中は動いていく。世界は非常に大きいし、会ったことも見たことも無い人や物がたくさんある。それらが自分の存在と関係していないのはあまりにも明らかである。これもまた、知識が増えてしまった代償だろう。
思うに、赤外線が見えたり、ソナーを備えたりしている生物には闇は存在しないだろう。そんな生物が知性をもったら、死に直結するイメージは闇ではなかろう。じゃあ、なんのか?僕にはよく分からない。
5歳の息子はまだ闇を怖がっている。いつかは、彼も闇を怖がらなくなる。それと同時に失うものはなんなのだろうか、彼が。
2001年1月7日
今日は大雪。おそらく、1998年の正月の大雪以来になるでしょう。明日は休みなので5歳の息子は雪遊びを楽しみにしてさっさと寝ました。
しかし、つくづく思うのだが、雪とは非常に不思議な現象である。空気中の水蒸気が直接、氷の結晶になる。難しい言葉で言うと気相成長である。氷の結晶の美しさもさることながら、空気中の水分が氷になって降ってくるという現象はなぜ起こるんだろうか。非常に寒いときには息が白くなるが、あれがもっとすごくなって、息が凍るような場合もあると聞いたことがある。つまり、うんと湿った空気が非常に寒いところに突然追いやられると空気中の水分が直接凍るのである。これはそう簡単には起こることではないはずだ。
まず、氷はいかなる圧力であろうと、温度ゼロ度以下でないと出来ない。普通は、圧力が高いほど固体になりやすいのだが、水はそうではない。で、水蒸気と氷が共存できる領域は、温度がゼロ度以下で気圧が1気圧以下の領域に限られる。圧力がそれ以上だと、氷と水の共存になる。上空はちょうど温度が低くて圧力も低いからこの条件を満たしていて、それで雪が出来る条件を満たしているのだと思う。
つまり、雪が降ってくるには、上空に行くほど気圧も温度も下がるような状況でなくてはならないが、一方で、どこかで水が水蒸気になる場所があり、そこから水蒸気が供給されないといけないわけだ。こういう大循環があって始めて、空から雪が降ってくるという不思議なことが起きる。
地球サイズのレベルでは、赤道で蒸発した水分が極で雪になって降っているのだと思うが、この氷が融けてくれないと、地球の水は全部、極で氷になってしまうはずだ。それが起きないということは、何か非常に微妙な温度の状態があって、蒸発する水と雪になって凍る水のバランスがそこそことれているに違いない。これは結構、微妙なバランスじゃないだろうか。そういうことを研究した人はいるのかな。僕には分からないけど。
2001年1月6日
それにしても物理学は過去の学問だなとつくづく思う。昔、物理学は哲学とかなり関わっていたと思う。もともと物理学は自然哲学から派生したし、20世紀になってからも、一線の物理学者は哲学的な見解をかなり求められたと思う。量子力学や相対論は実際、認識論的な哲学にはインパクトを与えずに置かなかったろう。
いまはどうか。この新年は世紀の変わり目のせいか、未来を展望する特集記事を各新聞がこぞって掲載したが、そうなると科学は避けて通れないことが分かる。各紙とも必ず、特集のどこかで科学を論じていた。が、物理学を論じたものは殆ど無い。バイオ、情報、ロボットくらいが関の山。核兵器さえ問題として取り上げられなかった。まさに、物理学は死に体の態をかんしている。
物理学が科学として重要でなくなったわけでは全くないだろうけれど、バイオ、情報、ロボットに比べると、日常生活へのインパクトが著しく低下したのは間違いないだろう。これからは物理学は本当に理学として、浮世離れした状態で研究・教育されていかねばならなくなるだろう。それに対して、情報、バイオ、ロボットはこれからは20世紀に物理がそうだったように、日常への影響と哲学的な見解を常に考慮にいれながら研究しなくてはいけない立場になるのだろうと思う。だから、考えようによっては21世紀は純粋に理学としての物理学をやるのに適した時代になるのかもしれないね。
2001年1月5日
エキサイト翻訳というのを発見した。ようするにURLを入れると英語に翻訳してくれるというサービス。あなたのホームページを英語にというサービスもあって、英語版はこちら、というタグを埋め込めるようになっている。というわけで、このページの先頭にタグを埋め込んでみました。
使ってみるとどういうわけか「日本語→英語」の方が「英語→日本語」よりはるかにいい。後者はほとんど意味不明ですが、前者はかなり意味が取れます。なぜだろう?日本人がやる場合には明らかに「英語→日本語」が簡単だ。しかし、これはひょっとすると日本人は日本語がわかっているだけかもしれない。つまり、英語で結構複雑なことを書いてあってもそれに相当する日本語は作れる。しかし、複雑な日本語に相当する英語は作れない(知らないから)。つまり、翻訳は二段階よりなっていて
2001年1月4日
人間は進化しているのか、というと生物としては進化していないが、道具が進化している。だから、道具と人間の共進化みたいなことを考えないといけない、みたいなことが今日の朝日新聞の夕刊に掲載されていた(未来に追いついて 1 「人間は進化しているのか」佐倉統)。きっとゲノムとミームの共進化みたいな概念を考えればいいのだろう。しかし、この場合、ゲノムの進化速度はミームの進化速度に比べて非常に遅い。こうなるとゲノムの方はミームの進化を制限する拘束条件にしかならないだろう。共進化とは呼べない。ミームもまた、利己的な遺伝子ばりに、子孫が多いほど生き残るみたいな淘汰にさらされているなら、現実には、ゲノムに依存せずに進化したいと「思う」はずだ。今のところ、幸か不幸か、ミームが宿れるほど複雑な情報機械は人間の大脳だけだ。勿論、コンピュータにも情報は蓄積できるが、人間が読んで伝達しないと複製されたりしないから結局、駄目である。
しかし、遠い未来(近い未来かもしれないが)には、ミームを宿せるコンピュータみたいのが出来てくるのではなかろうか。そういう機械が出てくると、当然、人間の脳より高速だから人間の脳に宿るミームは競争に敗れるだろう。具体的に言うと機械が作り出す情報に人間が躍らされるようになるということだ。そんなばかな、と思うかもしれないが、流行なんてのはある程度流行ると、内容がどうであってもミームとして広がりつづけるだろう。映像にせよ、文字にせよ、音楽にせよ、ゲームにせよ、人間よりミーム的に優れたものを作り出せる機械が作られれば、自動的に人間の脳は受け身的にミームを蓄積するだけの装置に成り下がる。いや、むしろ、人間なんていなくなるかな。一体、そこんところどうなんだろう?
参考文献:まだ、読んでないけど ミームマシーンとしての私 by スーザン・ブラックモア
2001年1月3日
20世紀の最終兵器は原子爆弾だった。地球を何度も破壊することが出来るほどの核兵器が蓄積された、といわれた。21世紀、それは確実に、大国以外の国や、テロの現場にも流出していくだろう。だから、核兵器を20世紀の最終兵器として葬り去るのはまだ早い。
にも関わらず、それはやっぱり20世紀の最終兵器なのだ。21世紀には21世紀なりの最終兵器が登場するだろう。どんな可能性があるのか?まず、ありきたりなところから言うと、生物兵器かな、細菌やウイルスの兵器。人間だけを標的にするような細菌やウイルスが人工的に作り出されて使われるかもしれない。いや、もっと言うと、「日本人だけを主に殺傷するウイルス」とかも作れるかもしれない。アメリカ人だけを殺傷するウイルスは作れないな。生物的に一様じゃないから。あるいは、コンピュータウイルス。これからありとあらゆるものがコンピュータ化されて、ネットにつながれていくだろうから、OSに依存しないコンピュータウイルスが作れれば、ほぼ最終兵器の感を呈するに違いない。
でもまあ、正直言って、こういうのはきっとSFだけの世界の話で、現実は全然、別のものが最終兵器になるのじゃないかと思う。例えば、ナノテクを使ったミクロ兵器。人体や精密機械に潜り込んで破壊するとか。あるいは、遺伝子の性質が解明されれば、遺伝子に異常を起こして劇症的な死をもたらす物質が作れるようになるかもしれない。どんなことが起きるにせよ、それは我々の予想を越えているに違いないのは確かだ。ただ、なんとなく予想できるのはそれがきっと脳に関係する何かだろうということだ。人間を人間足らしめているのは脳だし、脳ほどいろいろな意味で脆弱なのに仕組みが全然分かってない器官も無い。脳の研究は劇的に進むだろうから、これに遺伝子工学やナノテクノロジー、情報理論が結びついたらどんな恐い兵器が作り出されるか想像に難くない。兵器は結局は人間を殺すための道具なのだ。人間をもっとも効率よく破壊するのは脳への攻撃だ。我々はその様な兵器の出現を防ぐことができるだろうか?それとも、核兵器と同じようにそれを作り出してしまうのだろうか?どうも後者の可能性の方が高そうだ。
2001年1月2日
ダーウィンの危険な思想という本が出た。これはまあ、啓蒙書のたぐいである。進化論の。原書が5年前に出たとき、購入したけど全く読めなかった。時間が無かったのが最大の理由。おもしろそうな洋書を購入しても和訳されるまでに読めないのが一般的である。この本もそうなってしまった。
なんでも和訳でも二段組で800ぺーじというおいそれとは読めないボリュームらしい。しかし、ぜひ、購入したい。そして読みたい。問題は時間。若い頃は時間はあっても金が無くて本が買えない。年をとると金はあるけど時間が無い。まるでそうなってしまった。分かっていたことだけれど。若い頃より知識は格段に増えているから、本を読むのも簡単だ。どこかで読んだようなことが書いてあれば読み飛ばせる。それでも、時間が無い。
時間がないことのもう一つの理由は、コンピュータ、特にネットだろう。この文章を書くのも時間のロスになっている。一方で、誰かには読まれていて、ひょっとしたら読んだ人の利益にはなっているかも。結局のところトータルでは時間は節約されているのかいないのか。インターネットのおかげで大概のことは本を読まずに調べられるようになった。無料の膨大なデータベースがあるようなもんだ。一方で、ネットに情報を流すのにみな時間をロスしている。損得はどのへんにあるか?僕にはよく分からない。
でも、もし、トータルで効率があまり変わらないなら、今の方がいいと思う。人間同士がつながっているように感じるから。ネットを通して人間の多様性を実感できるから。人間は社会的な動物なんだから、その方が自然でしょう。進化的にも有利。上述の本にもきっとそんなことが書いてあるんだろうな、読んでないけど。
2001年1月1日
世にも奇妙な物語を見た。
SMAPの5人のメンバーがそれぞれ各話の主人公になるという趣向。これはただのエンターテインメントに過ぎない。それにたかがTVだ。だが、やはり人を引き付ける力はかなりのものだと思う。そこにあるのは一体、なんだろうか。
本が読まれないとか、大学生の学力が低下したとか、教養離れとかいろいろ言われている。しかし、こういう番組にはなにか人を引き付ける力がある。昔は本とか大学とか教養とかにそういう人をひきつける力があったのだと思う。そして、それは失われた。
かなり確信を持って言えるのだが、決して本とか大学とか教養が昔より駄目になったわけではないのだ。そうじゃなくて、社会の方が変わってしまって、本や大学や教養が変わってしまった社会を引き付けなくなったのだ。悪いのは社会でもなければ、本や大学や教養でもない。ただ、その間に大きな亀裂が出来てしまって、それを誰も埋められないのだ。
一方でテレビは、時代に即して変化しながら、なんとか生き残ってきた。なぜ、そのダイナミズムが本や大学や教養にないのか?答えは簡単だろう。テレビとは電波で送られた信号を映像と音響に変換するシステムに過ぎない。中身はなんでもいいのだ。だが、本や大学や教養はどうもそうではないだ。本は中身はどうでもいいと思うかもしれないが、実際はそうじゃない。その証拠に漫画や雑誌は本とはみなしてもらえない。少なくとも「本離れ」という場合に、代わりに雑誌や漫画を読むようになっても本を読んだことにはならない。しかし、形態からしたら、漫画や雑誌と本には区別はないだろう。だからやっぱり、本は中身がどうでもいいわけじゃないのだ。大学や教養も言うまでもないだろう。形じゃなくて中身が問題なのだ。
中身が問題である場合には時代に即して変わりようが無い。変わればそれは別のものになってしまう。だから、本や大学や教養は必然的に時代においていかれる運命なのだ。ヨーロッパの大学は1000年も続いていたりするようだけれど、それはいったい、なぜなんだろうか。同じままで生き残れるわけはない。形だけ保持して中身を維持できずに生き残っても同じ物とはみなされない。おそらく、不変だった中身は「知」だろう。だが、これからも「知」は守るべき物なのかどうか?そうじゃないとすると、本や大学や教養には未来はない。
2000年12月31日
とうとう20世紀最後の日も終わろうとしている。しかし、まあ、そういう区切りは人為的なもので特に意味も無い。
地球は水の惑星といわれているが本当の意味では「海」の惑星という方が正しいだろう。非常に多くの生物が海に住んでいる。陸にいるほうが勿論、例外である。その例外の中でも新参者で例外に過ぎない脊椎動物の仲間である人類がこれほど個体数を増やしたというのは驚異的だ。まして、使っているエネルギーの量と言ったら桁外れである。しかし、もし、ここで生み出している情報の量を考えたら使っているエネルギーなど問題にならないほど多い。例えば、このエッセイだって、情報量は膨大だ。人間以外の存在がこれと同じだけの情報を作り出そうと思ったら、どれくらい膨大なエネルギーがいるだろうか。そう考えると「情報/エネルギー」、つまり単位エネルギーあたりの情報生成率は驚くほど高いはずだ。実際、コンピュータのおかげで、その情報生成率は本当にすごい大きさになった。
これからの人間の存在はこの異常に肥大した情報生成率をどう制御して整理し、使いこなして行くかということにかかっているだろう。だが、それも自然と解決されるものかもしれない。現在のインターネット上の検索エンジンの性能は、実際、こうやって生み出される膨大な情報をすべて使える情報に転化することにみごと成功しているといえるだろう。肥大化した情報生成率とその制御能力。これこそが21世紀の人類のあり方を規定するのは間違い無い。
2000年12月30日
2,3週間前にプラネタリウムに行った。目当ては子供が「コナン」を見たいと言ったからだが、前半にお約束の「今夜の星空」があった。非常に特徴的な星空で、満月のすぐ隣に土星と木星が明るく輝いている。昼間見たプラネタリウムの空を夜確認することなどまずないのだが、その日の夜はたまたま見る機会があった。確かに月のそばにあかるく輝く星が見えた。
次の晩、ふと空を見て、満月のそばに思わず明るい星がないか捜してしまった。が、どうみてもずいぶんと離れている。昨日と今日でそんなに違うわけはない、と一瞬思ってしまったが、冷静に考えると、月は1ヶ月足らずで天空を一周するのだから、1日で30度以上天空上の位置が変わるわけだ。土星や木星の位置がそう簡単に変わるわけ無い、と思っていると、大間違いで月の方はどんどん動いているのに決まっているのだ。理屈では分かっていても思わず、1日でそんなに変わるわけ無いと思ってしまうから情けない。
理屈が分かっていても、1日で星空が変わることを奇異に思ってしまうのだから、何も分からない昔の人がその理由を考えて、占星術なんか考えてしまったのもなんとなく分かるような気がした。複雑な星の動きに意味を見出すなと思うほうが無理だろう。科学が進歩しても人間の直感(天空が1日くらいで変わるわけ無い)は健在なのだから。
2000年12月28日
科学書と言うのは高価で買いにくいし、大体、どこの本屋でも品揃えが悪いので、選ぶのも難しい。しかし、最近はオンライン書店のおかげでその状況も改善された。例えば、bk1のサイエンス・テクノロジーのコーナーはかなり充実していると思う。しかし、まあ、これは自分が関係しているせいもある評価なのでちょっと割り引いて聞いた方がいいと思う。私は基本的に判官びいきなので、メジャーなところは評価したくないのだが、アマゾンの科学・テクノロジーの棚もあなどれなく充実しているとは思う。bk1もアマゾンも読者書評付きだし。ただ、アマゾンは英語の紹介なんかがただはりつけてあったり、古い本、新しい本入り乱れてるし、手のかけ方が雑ですね。きっと科学書で儲けようなんて思ってないんでしょうね。まあ、それはそれで正しいけど。
yahooショッピングの自然科学と技術の棚は意外に硬派です。専門書などずらずら。こんなんで売れるんだろうか。そうそう、2000年科学書総括なんてのもあります。これはもろ関係しているから全然、客観的なお勧めじゃないな。
というわけで年末年始には科学書の一冊くらい読んでみてはどうでしょうか、ということで。
2000年12月27日
今年もいろいろな科学ニュースがあった。ヒトゲノムの解読終了、国際宇宙ステーション居住開始、白川博士ノーベル賞受賞、あたりが御三家というところか。このうち、最後のネタはいろいろな意味で日本を象徴していた。白川博士の経歴を見ると、母校の東工大で博士号をとり、そのまま助手に就職したまではよかったが、その後万年助手で昇格できず、筑波大学に拾ってもらった。そして、定年後は行き先も無く、さびしく老後を送る予定がノーベル賞受賞でいきなりときの人に。
実は、ノーベル賞受賞の第一報がネット上に流れたとき、僕はメジャーな日本語の検索エンジンで「白川英樹」を検索してみた。本当に悲しいほど何もヒットしなかった。彼がノーベル賞をとるのを誰も予想できなかったのは、無理も無い。
最近、教育論議が盛んで、教育基本法までいじろうという話しまで出ているが、白川博士にしろ、青色ダイオードの中村修二にせよ、とにかく日本はユニークな人材は全く評価されない。昨日のエッセイにつながる話にもなるけれど、どうやって人を評価して、どういう人間を教育していくのか。いちばん問題なのは平均からはずれた人をいかに育てるかということではないのか。これが全然、問題にすらならないのは実に悲しい。本当に駄目だよな、この国って。
2000年12月26日
人間はどう評価されるのか?僕にはよく分からない。世の中には優秀な人も頭がいい人もいっぱいいるけど、必ずしも評価されているわけではない。それはひとえに、地位の数と、その地位にふさわしい人の数が合っていないからだと思う。
極端な話、アメリカの大統領は1名でいいけど、アメリカの大統領が務まるだろう人はごまんといるだろう。でも、大統領は1名しかいらない。そうなると必ず、あぶれる人が出る。一般に、ある地位の必要数は社会的な要請で決まると思うが、その地位にふさわしい人の数はそういうこととは全く独立に決まるだろう。そうなると、いたるところで「あぶれる」人が出てくる。本人の能力は同じでも、あぶれた人はあぶれなかった人よりずっと劣っているように見られてしまう。この矛盾。
個人的には人の評価とは、「その人が集団の多様度をどれだけ増やしたか」で評価したい。同じ人が2名いてもあまり意味はない。個々人がどれだけオリジナルで他人と違うことができたかで評価したい。それだったら、序列的な評価じゃなくて、あぶれて不遇になる人もいなくなる。これは一見、甘い基準のようだが、人の真似はだめだということになるから実は個々人に非常に厳しい条件を課すことになる。僕はこういうのがいいと思うが、なんでも横並びの日本では難しいだろうなあ。
2000年12月25日
世紀末話は続く。20世紀は物理の世紀、21世紀は生物と情報の世紀、だという。さもありなん、と思う。一方で、じゃあ、1900年に20世紀は物理学の世紀だと思っていたかというとこれはかなり疑問だ。なにしろ、量子力学の発見は1900年とされているが、その時点でこれほど技術的に応用が発達すると予想できた人は少数だったのではないか(あるいは、ゼロか)。量子力学がなければ、コンピューターも携帯電話もインターネットもほぼありえなかった。そう思えば、物理学がいかに我々の生活を変えてしまったのかはあまりにも自明だ。それでも、それが1900年に予想できたとは思えない。
じゃあ、生物と情報は我々の生活を変えてしまうのだろうか?しまうとは思う。ただ、ちょっと物足りないのは、1900年に携帯電話が予知できなかったように、生物や情報が本当に我々の人生を変えるなら、それは今の時点で予想など出来ないのであって欲しいのだ。生物学がもてはやされているのは、ゲノムがらみの技術転用の故だが、何だが出来ることがある程度予想できてしまうのだ。人間のクローン、なんて誰でもすぐ思いつく。だが、1900年の時点で携帯電話はそうではなかった(と、思う。予想した人はいたかもしれないけど、いま、みんなが人間のクローンを予想しているほどには予想できていなかっただろう)。つまるところ、ゲノムは今あるものを解析しただけの科学だから、本当の意味での新しいものは出てこないのかもしれない。情報、もまた、人間が作り出すものだから、予知できない新しさは結構少なそうだ。そう思うと、予知できてしまう生物と情報が21世紀の科学だとは、なんか物足りない気がするのだ。
ひょっとすると、21世紀は20世紀がそうであったほどには科学の世紀ではないのかもしれない。だから、21世紀が生物と情報の世紀であっても、21世紀の生活を本当に変えるものはそれ以外のところからやってくるのかもしれない。そんなことをちょっと感じる今日このごろ。
2000年12月24日
弁護士の数を増やせ、という論議が盛んだ。要するに訴訟が時間かかりすぎ、弁護士も裁判官も人数が少なすぎるから、という論理だ。一方で、弁護士の側は増やすと質が落ちる、と言っている。両方とももっともらしい。じゃあ、質を落とさずに数を増やす方法は無いのか?一つ、参考になるのは医学部方式だろう。医学部は医者になるためだけの学部で入学段階でその数が厳しく制限されている。一方で、法学部は文系の典型的な巨大学部で弁護士になる能力も気力もない人達がたくさん、入学している。ようするにここが問題ではないか。法学部と法曹教育を同一視する限り、まず、答えはないだろう。
いま、考えられている法学院構想というのは要するにそういう事だと思う。質を落とさずに数を増やすための方法。しかし、一方で考えなくてはならないのは、医学部教育もまた、限界にぶち当たっていることだ。勉強ができるけど医者として性格的に必ずしも向いていない人が入学してきてしまう。で、社会人入学とか言っているようだ。法学院もきっとそういう考えが必要だろう。一度、社会人になってから、再教育というのは医者や弁護士のような人間相手でかつ知的にもエリートでないと務まらない職業ではこれから必須になるのかもしれない。
で、結論、「人間相手でかつ知的にもエリートでないと務まらない職業」は他にもある。大学の教員である。いわゆる教授・助教授という人々だ。学部にもよると思うけれども、一度、社会人になってから教授・助教授になるというのはなかなか少ないのではないか。実際、現在の大学の教員は研究業績が主たる評価基準だから社会人から大学教員になるのは結構、難しいのではないか。でも、こういうところをなんとかしていかないと大学生の学力崩壊なんて絶対、解決しないのではないか、と思う。
2000年12月23日
子供の頃、21世紀になれば当然、宇宙旅行が実現しているものだと、思っていた。子供頃、21世紀ははるか遠くで、本当になんでもありの未来だった。それに比べるとほとんどなんの進歩も無いような気がする。スペースシャトルなんて、「宇宙」というのも恥ずかしい低軌道を這いずり回っているだけである。なんでこんなにイメージと現実が違うのか?
これはきっとアポロ計画のせいだろう。1969年という大昔に、月までいってしまった。あと30年もあれば火星まで余裕で行けると思うのは人情だろう。しかし、やっぱり、あれは身の丈に合わない無理な計画だったのだと思う。「月面にたった男」という本がある。アポロ計画の最後の月ロケットの船長で、人類では最後に月に立った男だ。彼はその中で、ケネディは21世紀から10年間を切り取ってきて1960年代にはめ込んだ、というようなことを書いている。本当なら、有人宇宙飛行の次はスペースシャトルでそれから宇宙ステーションを建設し、それから月へ、という順序であるべきだったのでは、というのだ。確かにそうかもしれない。「アポロ13号」という映画があった。アポロ13号は事故を起こして月に行けなかったロケットだが、絶体絶命の状況から見事生還してみせて、世界の感動を呼んだ。これはその実話の映画化なのだが、その中にこんなシーンがあったという。事故のため、軌道の再計算を余儀なくされる司令センター。リーダーが「さあ、みんな計算にかかってくれ」と言う。見ている我々は電卓でも取り出すのだろう、と期待してしまうが、人々が取り出すのは計算尺だ。そう、電卓さえない時代に、人類は月までロケットを送ってしまったのだ。今、我々が味わっている幻滅は、きっとあの成功しすぎたアポロ計画の感動の代償なのだ。
2000年12月22日
ゴアが大統領選挙を落選した。落選演説はかなりいい出来で出色の出来だとか。最初からこういう演説が出来ていれば、落ちなかった、ということらしい。ゴアはとにかく、究極の秀才みたいな人のようだ。僕のまわりにもそういう人はたくさんいるけど、傲慢な人が多いと思う。ゴアもそうだったんじゃないか。自分は優れているから、大統領に選ばれて当然、という態度がにじみ出てしまったんじゃないか。しかし、まあ、逆言うとそれは彼がそれだけ人間的だったってことでもある。自分の傲慢さがにじみ出てしまって落ちてしまう、なんてのは、裏返せば人間が正直だということだ。ゴア=サイボーグ説があるけれど、サイボーグだったら自分の傲慢さをまんまと隠しおおせて大統領になっただろう。
ゴアは2004年にも出馬の予定だという。陰ながらゴアがなってくれればと思っていた僕としては応援したい。しかし、どんなに秀才でも報われるとは限らない。いや、むしろ報われない方が多い。僕のまわりに多い傲慢な秀才達も報われないような人が多いような気がする。秀才じゃない僕からみるとホッとする面もあるが、不合理な気もする。傲慢な秀才は報われるべきか否か。永遠の問題かもしれない。