ヘビとサカナが同じ仲間じゃなぜいけない?!

DNAが語る生物分類法の非客観性

トノサマバッタ, アマガエル, ツキノワグマ……地球上に生息する生物はすべて「種」として分類されている。だが, 1970年代から, この生物学の“常識”に異を唱える学者たちが現れ始めた。「“種”などという分類はもはや存在しない」――彼らの言葉が意味することとは ?

words 田口善弘 Yoshihiro Taguchi

 

「種」――それは生物学における生物分類の基本単位である。人間が何かを理解しようと思ったとき, まずその対象に名前をつける。種とは, 人間が生物を理解するためにつけた名前だ。ホモ・サピエンスは人間という種につけられた名前であり, ティラノサウルス・レックスは, 恐竜のある種につけられた名前である。

 だが, 生命の歴史, 系統関係の研究にいそしむ, 農林水産省農業環境技術研究所の主任研究官, 三中信宏は語る。「種, および, その上位の類, たとえば, 属, 科, 目, などの高次分類群はすべて, リンネ【*1】が生物の名前を覚えやすくするためにつくり上げたシステムにすぎない」――。これはどういうことだろうか ?

 現在, 生物は百数十万種が知られており, 未発見のものを含めると一億種が存在するともいわれる。では, そのリンネが創始したシステムとはどんなものだったのだろう ?

 もしあなたが, 百数十万種に及ぶ「種類」に名前をつけよ, と頼まれたらどうするだろうか ? いちばん単純なのは「ただ名前をつける」ことだ。たとえば, 60億人近い人類にはこの方法が採られ, それなりにうまく機能している。だが, この命名法にはいくつか問題もある。

 まず, 重複を避けることができない。田中太郎とか, メアリー・ブラウンという名前をもった人物がこの世に一人しかいとは限らないし, ヒラタクワガタという名前の生物が二種類いたのでは都合が悪い。また, 生物と生物の関係をうまく表現できない。山田太郎と山田花子がいた場合, 彼らは兄妹かもしれないし, アカの他人かもしれない。ゲンジボタルとヘイケボタルは同じ「ホタル」の仲間だが, ツキノワグマは「クマ」仲間なのに対し, アライグマはそうではない。

 リンネが採用した命名法はもっとスマートで合理的だ。それは「住所」の記し方によく似ている。郵便物を送るときの「秋田県秋田市土崎港2-40-5 鈴木一郎」という宛て名は, 秋田県の秋田市にある土崎港という町の2丁目の10番地の5号にある鈴木家に属する一郎がこの郵便物を受け取るべきである, ということを示している。このやり方なら重複をほとんど避けることができる。

 これと同じように, リンネは, すべての生物を大きな分類群から小さな分類群へと階層的に分類する方法を完成させた。人間は「哺乳類」, トカゲは「爬虫類」という「類」に属するが, これは, 住所でいえば「国」に相当する大きな分類で, イヌ科,ネコ科などの「科」は「県」や「市」などに相当する小さな分類だ。そして, ホモ・サピエンス, とか, ティラノサウルス・レックスのような分類群は, 階層分類のうち, 姓と名に相当する分類階層の下位のふたつの分類をつなげてつくった“略称”にほかならない。

“記憶術”あるいは“命名法”としてのリンネの体系は, そういう意味では非常に合理的だった。ただ, それはあくまで人間がつくった命名法であり, それが自然に存在する生物の階層構造を「正しく」反映しているかどうかは大きな疑問だ。

 たとえば, 日本列島に属する地表のある一点が「宮城県仙台市」に属する, という事実は「自然科学」としてはほとんど無意味である。この世のすべての国境や県境などの境界を完全に消去した“白地図”に初めから境界を引き直したら, もと通りの県境が引かれる可能性はゼロに等しい。では, 生物の分類であるリンネの体系はどうだろうか ? 誰がつくっても同じ分類になるのだろうか ?  

 恣意的なリンネの体系

 実際には, 生物の分類の方が, 地名のつけ方よりずっと面倒だ。たとえば, 北海道の内陸部に属する札幌市が, そこだけ秋田県に属したりはしない。地理上では「隣接する土地」という絶対的な関係は不変だからだ。これに対し, 生物の分類では「何と何が近い」ということさえ実に曖昧でする。「いや, 何と何が仲間かは誰にでもわかる。虫は虫だし, 鳥は鳥ではないか」と思うかもしれない。だが, 我々は「この生物とこの生物は仲間である」ということをどうやって決めだろうか ?

 まず, 見た目を大事にするだろう。二本足で羽のある生き物が鳥類, 温血で母乳を与えて子どもを育てる動物が哺乳類, というふうに。しかし, すぐわかるように, この分類の仕方は随分と恣意的である。目の数で分類して, 目が二つの生物を「二眼類」, 次に足の数で分類して, 足がない生物である魚, ヘビなどを「二眼類無足目」という分類にしてはなぜいけないのだろうか ?「ヘビと魚を一緒にするのはおかしい。どう見たって, ヘビは魚よりトカゲに近いじゃないか」というのが大方の反応だろう。確かにその通りだ。しかし, これは逆にいうと一見「合理的」に見えるリンネの体系が「人間の直観にできるだけ反しないように, かつ, (一見)客観的な」基準を導入しただけのものであることがわかる。

 つまり, リンネの分類法は, 科学的に見えても, 実際には人間の主観を体系化したものにすぎないのだ。では, ヘビは魚とではなく, トカゲといっしょに分類されるべきだ, という誰しもが感じる直観はまったく根拠のないものなのだろうか ?

 S・J・グールド【*2】の著書を訳したこともある農林水産省の三中は, 「もし,リンネの分類体系が人間の主観に依存しない客観的な『何か』を反映しているとすれば, それは『生物が進化してきたという事実』そのものだ」という。だから, 主観的で根拠のないリンネの体系は全廃して, 進化の歴史だけに基づいて, 一から考え直すべきだ, というのが彼の主張だ。

 ダーウィンの『種の起源』以来, すべての生物は最も原始的な生物から徐々に進化して蝿や鳥, 人間になったということが「事実」となっている。そこでもし, ヘビが魚とではなく, トカゲといっしょの区分に分類されるべきだ, ということが人間の主観以上の何かの意味をもつとすれば, それは, ヘビの先祖を遡っていけば, 魚の先祖よりも早く, トカゲの先祖と出会うであろう, という事実の反映である。俗っぽい言い方をすれば「血筋が近い」ということだ。つまり, ヘビが魚より, トカゲに似ているのは血筋が近いからであり,リンネの体系が「不完全ながら」反映しているのはこの血筋ということになる。

 DNAによる体系化

 厳密な血筋に従ってリンネの体系を再構成しようという考え方は今に始まったものではない。1970年代から一部の学者の間で主張されてきたのだ。しかし, この正統的な考え方は長い間「現実的ではない」とされてきた。いかに不完全で恣意的なものであっても, リンネの体系は「目の前に存在する」生物からつくり上げられたが, それに対して, 血筋は眼に見えるものではないからだ。「魚の祖先がトカゲやヘビの共通の祖先から分かれたのは大昔だ」などということは記録として残っていない。唯一の過去の記録とでもいうべき「化石」にしたところで, 現存の生物すべての血筋を決めるのに用いるには, あまりにも記録として数が少ない。かといって, 現存の生物の特徴を観察して「この生物とこの生物は共通点が多いからきっと血筋が近いはず」などという推定を始めたら, 結局リンネの体系と大同小異だ。では, 三中が主張していることは単に哲学的な机上の空論なのかというと,決してそうではない。現在, 三中の主張は実体的な意味のあるものになっている。それは, 分子生物学の急速な発展を抜きには語ることができない。

 生物の体形, 機能などの情報すべては生物の細胞の中に存在するDNAの中に“デジタル・データ”の形で書かれている【*3】。現在, DNAの解読はその途上にあり, 完全ではないが, まったく同じDNAをもつ生物(たとえば, 一卵性双生児)は遺伝的にまったく同等であることがわかっている。血縁が薄くなるに従って, データの類似性が低くなっていくのだ。

 それはちょうど, ある特定のアプリケーションがバージョン1から2〜3となるに従って, バイナリ・レベルの類似性がだんだん低くなっていくのと似ている。そして,そのバイナリ・レベルの類似性を詳しく調べればバージョンの順序, つまり“世代”を再現することができる。ここで大事なことは, 「たとえそのアプリケーションの機能を全然知らなくても」世代の再構成が可能だ, ということだ。DNAという生物の“バイナリ”を見れば, DNA自体が解読されていなくても, 同じように世代の再構成をすることができる。

 このような技術のおかげで「生物の進化だけ(だけに傍点)に基づいて生物の種別を再構成しよう」という三中らの主張が急速に現実的なものとなってきた。生物はすべて, 自分の祖先の形を引きずっている。そして, これらの情報はDNAの中にデジタル・データとしてかなり正確に含まれている。現存するすべての生物が進化によって生まれてきた以上, この原理はすべての生物に当てはまるはずだ。つまり, DNAのデジタル・データの類似性が高いほど, お互いの共通祖先が近い過去に存在した, ということを意味する(ちなみに人間とチンパンジーのDNAは98%まで一致しているといわれている)。

 三中は「客観的なデータに基づいて血縁関係がほぼ正確に予想できるようになった以上, リンネの提案した体系は生物の進化や多様化を論じる上で, もはや意味がない」と言い切る。人間の主観を体系化したリンネの体系は, 科学とは基本的に相いれない。三中はさらに「こう考えると, 生物の分類のいちばん下位である『種』という分類さえ意味がないということがわかる」と言う。

 我々は, 生物には「種」というものがあって, それ自体が進化してきた, と漠然と思っているが, 実際には「種」というものですら, 人間のつくり出した, 現実には存在しないものかもしれないのだ。

 刻み込まれた歴史

  三中はリンネの体系という人間のつくり上げた(彼に言わせれば「不自然な」)分類に基づいた生物学を「分類思考」と呼び, 彼が提唱する, 進化という歴史に基づいた生物学を「系統思考」と呼んでいる。分類思考は極端なことをいえば, 石ころにも応用できる普遍的な方法だが, 進化という歴史をもつ生物には系統思考こそが, 真の姿を記述するにふさわしい, と三中は考えている。

 系統思考による生物の理解自体はまだ始まったばかりである。DNA解析技術が開発されてそれほど時間がたっていないからだ。それでも, 系統思考的なアプローチにより, 今までの生物学では決して到達できなかった研究がなされつつある【*4】

 三中自身は分類思考の成果を完全に否定しているわけではない。特に長い間に蓄積された生物の形態に関するデータは利用価値がある。ただ, それが今までは正しく用いられていなかったのだ。これからは, 系統思考に基づいて, 今までの生物学を根底からつくり直したいと, 三中は言う。

 系統思考は分子生物学という技術に後押しされて出てきたように見えるかもしれない。だが, 三中にとってそれは「歴史が科学として正しく認識された」ということの反映にすぎない。過去に歴史をもち, 現在の姿にそれが反映されているようなものすべてを系統思考で考え直すべきだ, と彼は思っているのだ。

 たとえば, グーテンベルクが活版印刷を普及させる以前, 本といえば, すべて手書きで, 本を所有したいと思えば, 自分で書き写すか, 誰かが書き写したものを入手するしかなかった。この書き写しの過程でなんらかの間違いが入ることは避けられないが, 逆にこの“エラー”を系統的に追跡することで, いろいろな写本が, どのような関係にあるのか(どれがどれを書き写したものなのか)を追跡することが可能だという。そして, 実際に, そのような研究は, ヨーロッパの比較文献学【*5】では広く行われている。

 このような「現在の姿に過去の歴史(=進化の痕跡)」が残っているようなものを「歴史実体」と呼ぶ。歴史学とは, 今まではさまざまな間接証拠(文書, 証言, 化石など)によって過去を再現する学問だった。しかし, 生物を系統思考的に見ることにより, 間接証拠によらず, 進化という歴史を再構成することが可能になった。同じように聖書の歴史も現存する聖書の解析から導き出すことができる。この手法は生物や聖書のほかにも, 文化や言語など, 歴史実体として過去を体現したものにも応用することが可能だ。

 分子生物学の急速な発展と歴史科学の意外な発展からにわかに現実味を帯びてきた系統思考。それは生物をはじめとした多くのものの歴史を紐解く上で, 新たな道筋を与えてくれるだろう。w


【*1】カール・フォン・リンネ

1707〜78年。生物分類学の基礎をつくる。1735年に人為分類体系(リンネの体系)を完成させる。著書に『自然の体系』『植物の種』など。

 

【*2】スティーブン・ジェイ・グールド

ハーバード大学教授, 古生物学者。1941年〜。ハーバード大学比較動物学博物館主事を経て, 動物学教授。科学エッセイストとしても活躍しており, 著書に『パンダの親指』(本誌97年1月号「book surf」参照)など多数。

 

【*3】

人体を構成するタンパク質は20種類のアミノ酸でつくられている。DNAには「どのアミノ酸をどう繋げてタンパク質をつくるのか」という情報が, アデニン(A), グアニン(G), チミン(T), シトシン(C)の4種類の塩基の組み合わせによる“記号”として書かれている。これは0, 1のみで表現されるコンピュータの原理と基本的には同じだ。詳しくは本誌97年2月号「生命のプログラム言語」参照のこと。

 

【*4】

たとえば, 生物は進化の過程でほかの生物を「取り込む」ことで新たな機能を獲得してきたと考えられている。細胞内のミトコンドリアや葉緑体がその例だと信じられているが, まだその機構は明らかになっていない。さて, 一部の昆虫は体内に消化を助けるための細菌や微生物を共生させている(共生体)。これらの昆虫は共生体なしではもはや生きていくことができないし, 共生体も昆虫の体外では生きることができない。したがって, 共生体と昆虫は「一体の生物」といっても過言ではない。このような共生は取り込みの途中過程であるという可能性があるが, 共生体と昆虫の系統を解析することで「いつ, どのような形で」共生が開始されたかを知ることができるのだ。共生が完成してしまえば, 共生体と昆虫の系統図は一致してしまうからだ。このような研究など, まさに系統思考的なアプローチのたまものといえるだろう。

 

【*5】比較文献学

文中にもあるように, 筆写された文献には必ず写し間違いが発生し, これは二次的な文献(つまり, 筆写の筆写)にも受け継がれる。これを研究することでどの本が本当の原本か, などを再現することができる。これは聖書などの教典では重要なことである(もっとも古い“本当の記述”が何かということが重要だからだ)。このようなことを研究する学問が比較文献学である。

 


三中 信宏(みなか・のぶひろ)

農林水産省農業環境技術研究所・主任研究官。進化生物学・生物体系学・生物統計学を専攻し, 系統推定の理論的問題に関心を寄せる。

著書/分子進化実験法(1993、東京化学同人、共著)/生物系統学(1997近刊、東京大学出版会)

訳書/ニワトリの歯(S. J. グールド著、1988、早川書房、共訳)/過去を復元する(E. ソーバー著、1996、 蒼樹書房)


【著者プロフィール】

田口善弘 tag@granular.com

http://www.granular.com/tag/index-j.html。ハードSF研究所員。本誌97年2月号「生命のプログラミング言語」などを執筆。著書「砂時計の七不思議」(中公新書)。


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